2006年02月
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02月28日 / ガクフ(楽譜)
楽譜(がくふ)は、音楽を記録するために文字や符号を使って記号化したものである。記号化の規則を記譜法という。
ことばを記録する文字と役割が似ているが、文字が必ずしも朗読されることを目的として書かれるのでないとの対照的に、楽譜はほとんどの場合演奏されることによって目的が達成される所が大きく異なる。
文字に筆記者の意図を書き記したものと語られている内容を書き取ったものとがあるのと同様に、楽譜にも、筆記者(作曲家、編曲家など)の意図を書き記したものと、演奏を書き取ったものがあり、楽譜の作られ方に若干の相違が生じる。
また、音楽の記録のためには、音そのものを録音するという方法があり、この方法は音楽の微細な表情を記録するのに非常に有効である。しかし、録音が演奏の記録にすぎないのに対して、楽譜には音を使わずに読むことができるので演奏しながら読むことができる、演奏のためのさまざまなヒントを記すことができる、時間の流れを越えて視覚的に把握することができる、といった特徴があり、録音に取って代わられるものではない。
現在最も広く用いられている楽譜を五線譜といい、そこから楽譜を譜面と呼ぶ人もいる。普通、平行に引かれた五本の線の上やその周辺に音符や、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語、日本語などによる演奏の指示が書かれている。
15世紀まで、楽譜は手で書かれており、大量の楽譜を綴じて保管していた。機械で印刷された楽譜が初めて出てきたのは1473年のことで、これはヨハン・グーテンベルクによる印刷技術の開発から20年後にあたる。1501年にオッタヴィアーノ・ペトルーシが96曲を印刷して収録した Harmonice musices odhecaton を発行した。ペトルーシの印刷技法による楽譜はきれいで読みやすかったが、楽譜が出来るまでに3度の印刷が必要となり、時間も手間もかかる作業だった。1520年頃のロンドンで、楽譜の印刷が1度の印刷でできるようになり、1528年にピエール・アテニャンはこの技術を広めた。
1575年にエリザベス1世がトーマス・タリスとウィリアアム・バードに楽譜の独占印刷権を与えた。1596年にその期限が切れると、独占権はトーマス・モーリーに渡った。
19世紀には、音楽産業は楽譜印刷業界が担っていた。当時アメリカではティンパンアリーがその中心となっていた。20世紀に入ると蓄音機と録音した音楽に比重が移り、その動きを1920年代のラジオ放送開始が加速し、楽譜の出版は飽和を迎えた。そして次第に音楽産業は印刷業者からレコード業界へと移っていった。
20世紀後半から21世紀にかけては、楽譜をコンピュータで読み書きできる形にする技術の開発が盛んに行われ、いくつものシステムが開発された。その意味で、音楽データのデジタル転送規格であるMIDIを利用した記録方式であるスタンダードMIDIフォーマット(SMF)等も楽譜の系列に連なるものである。
02月28日 / ジャン・シベリウス
ジャン・シベリウス(Jean Sibelius, 1865年12月8日-1957年9月20日)は、フィンランドの作曲家である。出生時の洗礼名は、ヨハン・クリスチャン(Johan Christian)であるが、自らジャンと称した。
青年期にはヴァイオリニストを目指したが、後に作曲に専念した。主要作品は、7曲の交響曲、多数の交響詩、ヴァイオリン協奏曲などの他、劇音楽・歌曲・ピアノ曲など多岐に及ぶ。
クレルヴォ交響曲を除いて、7曲の交響曲が1900年から1924年の間に作られている。多くの作曲家が、より大規模で長大な作品へと移行する傾向にあるのに反して、より内省的で簡潔な表現へと変わっている。
交響曲第2番が一般には人気があるが、交響曲第6番・第7番は完成度が高く充実している。また、交響曲第5番は、作曲者の生誕50周年を記念して作曲された荘重なもの。
青年期にヴァイオリニストを志望したこともあるシベリウスは、1903年 夏にヴァイオリン協奏曲(作品47)を1曲完成させている。1904年2月に行われた初演は成功したとはいえず、当時の批評は「美しい部分は多々あるものの、全体的に冗長である。」というようなものが大半だった。その後作曲者はこの作品を改訂している。1905年10月19日にドイツで行われた改訂版での初演は成功し(それでもヨーゼフ・ヨアヒムはとてもつまらなかったと評したという)、以後時が経つとともにこの曲を評価する声が高まっていった。
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47
シベリウスは、第一楽章の冒頭部分に関して、「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。
02月28日 / ビバルディ
アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)はバロック末期の作曲家。イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのヴィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラの一員であった、理髪師でバイオリニストの父親からヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会付属の学校に入り、25歳に彼は司祭に叙階される。そのことと、彼が赤毛であったことから赤毛の司祭と呼ばれるようになる。彼は喘息を煩っており、ほとんどミサをあげることがなかった。司祭になると同時にヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院(Ospedale della Pieta´) でバイオリンを教えはじめ、2年後には作曲と合奏を教えるようになる。その後、数多くの作曲をし、各地を演奏旅行して回った。彼の残した作品は
500を超える協奏曲、46のオペラ、73のソナタ、室内楽曲、シンフォニア、オラトリオ、など多岐に渡る。
なかでも有名なのは「四季」(イタリア語:Le Quattro Stagioni、英語表記はThe Four Seasons)で、12曲から成るヴァイオリン協奏曲集《和声と創意への試み》 (Concerti a 4 e 5 "Il cimento dell'armonia e dell'inventzone") 作品8の内、第1曲から第4曲までの4曲「春」「夏」「秋」「冬」に付けられた総称である。ただし、ヴィヴァルディ自身による命名ではない。
「四季」の各協奏曲はそれぞれ3つの楽章から成っている。それぞれの楽章にはソネットが付されていて、主人公はヴィヴァルディ自身である。このソネットゆえ、この曲は、標題音楽に分類される。
ヴィヴァルディはこの「四季」で新しい旋律法やダイナミズムを追求した。
02月28日 / エルネスト・ショーソン
エルネスト・ショーソン
フランスの作曲家エルネスト・ショーソン(Ernest Chausson,1855年1月20日 - 1899年6月10日)は、はじめ法律を学んでいたが、25歳になってからパリ音楽院に入ったという少々変わった経歴をもっている。
1886年にサン=サーンスが組織したフランス国民音楽協会に参加した。 41歳(1896年)で、ショーソンの作品を代表する傑作のひとつ、「詩曲<ヴァイオリンと管弦楽のための>」op.25を作曲したが、この詩曲をはじめとするショーソンの各曲は一般の人にはあまり知られていないのが現状。
44歳で自転車事故を起こし、この世を去るまでに交響曲やオペラ、歌劇など幅広い分野での作曲を手がけた。
広くは知られていないが、詩曲はヴァイオリンの魅力を存分に出した、ヴァイオリニストにとってはかけがいのないレパートリー曲の一つである。
02月26日 / パガニーニ
パガニーニはヴァイオリンの鬼神と呼ばれ、当時はそのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会では聴衆は本気で十字架を切ったり、本当にパガニーニの足が地に着いているか彼の足元ばかり見ていた観客もいたという。しかも死後に教会から埋葬を一時拒否すらされたほどである。
作曲家としても活躍し多くのヴァイオリン曲を作曲したが、極めて速いパッセージのダブルストップ・左手のピチカート・フラジョレット奏法など、どれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート符はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、パガニーニの死後遺族が遺品である楽譜のほとんどを処分してしまったため、楽譜が散逸してしまいほとんどの作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための24の奇想曲や6曲のヴァイオリン協奏曲などだけが残されている。また、同じ理由から弟子をカミロ・シヴォリ一人しかとらず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。
パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。
興行師としての才能もあり、木靴に弦を張って楽器として演奏し一儲けした後、金に困った女性を助けたなどの逸話もある。一方で偽チケット事件も多発した。シューベルトはパガニーニがウィーンに来た時、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聞き(ちなみに、この時にシューベルトが聞いたのが「鐘のロンド」を持つヴァイオリン協奏曲第2番である)「天使の声を聞いた」と感激したそうだが、金銭に関して後先考えず無頓着なシューベルトらしい逸話である。この台詞は正確には「アダージョでは天使の声が聞こえたよ」と言ったものであり、派手な超絶技巧よりもアダージョの音色の美しさに感動する、シューベルトの鋭い感性も覗える。
またリストは、初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの演奏を聞いて「僕はピアノのパガニーニになってやる」と奮起し超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストはヴァイオリン協奏曲第4番を聞いたといわれている)。
02月26日 / ブラームス
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、19世紀ドイツの作曲家であり、大バッハ、ベートーヴェンと並びドイツ音楽に於ける「三大B」と称される一人である。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。作風は概ねロマン派音楽の範疇にあるが、古典主義的色彩も濃い。
多くの人は、ブラームスをベートーヴェンの後継者であると信じており、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評し、その通称は未だに広く使われている。
ブラームスの主要作品には、4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、合唱と管弦楽のための『ドイツ・レクイエム』などがある。これらの作品は世界各地のオーケストラで、現在でも主要な演奏レパートリーとして取り上げられている。
また変奏曲の大家でもあり、管弦楽曲『ハイドンの主題による変奏曲』、ピアノ独奏曲『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』、『パガニーニの主題による変奏曲』などがある。小品も数多く作曲しており、多くの室内楽作品と、独奏のためのピアノ作品がある。
さらには、最大の声楽の作曲家の一人であるという意見もあり、実際に200の歌曲や合唱曲を書いている。
ブラームスは歌劇を書かず、また、19世紀の音楽を特徴付ける交響詩にも手を染めなかった。
02月25日 / モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 - 1791年12月5日)は最も有名な作曲家の一人である。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ヴィーンで没した。洗礼名はJohannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozartであるが、当時はイタリアの音楽家がもてはやされており、モーツァルトはTheophilos(テオフィロス、ギリシア語で「神を愛する」・「神に愛された」の意。Theophilusはラテン語形)をラテン語で意訳したAmadeus(アマデウス)を通称として使用していた。
従姉妹に排泄の快楽がらみの手紙を送ったことがあり尻にキスをしろという歌曲も作曲している(「俺の尻をなめろ」K.231(382c))。この事は、彼にスカトロジーの傾向があったということでしばしば喧伝されるエピソードではあるが、当時の時代背景として、中世のキリスト教会の身体的快楽否定からの表現の自由が知識人達の間で模索されていたという文化事情も考慮すべきであろう。排泄欲も、当時の時代背景からは、食欲、性欲などと同列視されていた肉欲の1つであったのである。
父親はザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart, 1719年 アウクスブルク - 1787年ザルツブルク)、母親はアンナ・マリーア・ペルトル(Anna Maria Pertl, 1720年 ザンクト・ギルゲン - 1778年パリ)、姉はマリーア・アンナ(Maria Anna Mozart, 1751年 - 1829年)愛称ナンネル (Nannerl) である。
基本的に古典派の代表と位置づけられており、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人として君臨している。最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学んだ。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受け、後期に入るとフランツ・ヨセフ・ハイドンとヨハン・セバスティアン・バッハの影響が強い。
装飾音が多く、長調が殆どであり、展開の仕方はポリフォニックであったり、立体的であったりといろいろであるが、再現部やコ−ダにおいて、哀しみが含まれていて実に印象的である。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調のものが多く、人気が高い。
天才と呼ばれる所以は、下書きをしないという点にある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。曲想も天使的(長調がほとんど)でありながら、ほのかに哀愁を伴った悲しさが含まれており、実に感動的である。もう一つの特徴は、ピアノ協奏曲などのように、生計を立てるために曲を作った事とされる。実際、数枚の手紙で証明されている。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように自己表現の方法として音楽を用い、聴衆にもそれが理解される、という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」であったから受注作曲された作品が多かった。また、ピアノ協奏曲は彼のウィーンにおける全盛期にたびたび開催された「予約演奏会」で自らの弾き振りによって披露されることが多く、受注作曲の作品より創作時の自由度は大きかったであろう。モーツァルトの作品に長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。ちなみに、モーツァルト研究家のアルフレート・アインシュタインは、相対性理論を発見したアルベルト・アインシュタインの従弟である。
モーツァルトの葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。6日説は寺院に残された台帳が根拠となっているが、ヨーゼフ2世が過去に出した勅令で、死人は死後48時間経たないと埋葬できないことになっていた。また、書物などで見受けられるモーツァルトの葬儀の描写は、いずれも嵐の光景になっている。以前は「悲劇性を際立たせるための誇張」という見方がなされていたが、近世になって当時の気象記録から「6日は穏やか、7日は大荒れ」であったことが判明した。これらの面から、7日説を唱える研究者もいる。
墓は通説によると「セント・マルクス墓地」ということになっており、これはモーツァルト生誕100年にあたる1856年頃に聴取した古老の証言を基にしているが、没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時セント・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在セント・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて、適当な場所に適当に作ったものである。もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。
なお、セント・マルクス墓地は1874年にウィーンの市街改造の一環で閉鎖されており、現在は墓地公園となっている。ヨハン・シュトラウス2世の弟、ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。
現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。
02月24日 / J. S. バッハ
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach,1685年3月21日 - 1750年7月28日)は、18世紀に活動したドイツの作曲家、西洋音楽史上において極めて重要な位置にある巨大な存在で、もっとも偉大な一人である。バッハ家は音楽家の家系であり、バッハ姓の作曲家は非常に多い。ヨハン・ゼバスティアンはしばしば「J. S. バッハ」と略記され、また「大バッハ」とも呼ばれる。
バッハは幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。その作風は、通奏低音を基礎とした和声法を用いつつも、根本的には対位法的な音楽であり、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。従って、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、音楽史上の大きな分水嶺となっている。
彼はドイツを離れたことこそなかったが、大変に勤勉かつ勉強熱心で、幅広い音楽を吸収した。クープランなどのフランス音楽からは細部の語法や優美さ、ヴィヴァルディなどのイタリア音楽からは明朗な旋律やくっきりした形式感、南ドイツの音楽(フローベルガーやパッヘルベル)に見られる暖かな叙情性、北ドイツの音楽(ブクステフーデなど)からは深い幻想性や重厚な和声感、さらにはパレストリーナに代表される「古様式」までもを研究した。そういった様々な要素をバッハは完全に消化して、彼自身の個性に満ち溢れた偉大な音楽を創りあげたのであった。とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。
バッハは、いみじくもベートーヴェンが語ったように、『和声の父祖』、『「小川(ドイツ語でBachとは小川の意)」ではなくて「大海(Meer)」』のような存在であり、彼の遺した作品と、そこに用いられた技法はいわば西洋音楽のエッセンスを凝縮したものといえる。それゆえに、現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、刺激を与え続けている。
バッハの作品はシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)によって整理されている。「バッハ作品目録」は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されている。
バッハの器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲には、G線上のアリアのもととなる楽章など、広く親しまれている作品が多い。4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、ヴィヴァルディの協奏曲の編曲である。
バッハの器楽曲で特に名高いものとしては、旋律楽器のための無伴奏作品集『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』『無伴奏チェロ組曲』の2つがある(この他、『無伴奏フルートのためのパルティータ』が1曲ある)。これらは、それぞれの楽器の能力の限界に迫って多声的に書かれた驚くべき作品群であり、それぞれの楽器の演奏者にとっては聖典的な存在となっている。特に、『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』第2番の終曲にあたる『シャコンヌ』は古今の音楽家を魅了して止まない作品で、オーケストラ用やピアノ用など、19世紀以降様々な編曲が行われている。
一方、室内楽曲作品は、トリオ・ソナタや、通奏低音伴奏と旋律楽器のためのソナタもあるが、独創的な作品として注目されるのが、それまで専ら伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いた『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』『フルートとチェンバロのためのソナタ』『ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ』である。
なお、バッハの場合の「ソナタ」とはいわゆるバロック・ソナタ(大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルをとる)であり、古典派以後の「ソナタ」とは別種のものである。
02月23日 / シューベルト/四重奏断章
フランツ・シューベルト(1797-1828)の24歳の頃の作品。
第1楽章だけしか完成されておらず、第2楽章(アンダンテ)は40小節スケッチしたまま放棄された。
シューベルトは「第11番」を作曲してからこの曲までに4年もの間弦楽四重奏を書かなかった。そしてこの曲の2楽章を途中でやめてからも3年間弦楽四重奏を書かない。
この慎重さは、シューベルトの若い頃の作品に見られる冗長さをなくし、密度の濃い深い内容を音楽に与えている。
アレグロ・アッサイ ハ短調 8分の6拍子。大胆な省略をされたソナタ形式をとっている。ハイドンやモーツァルトにも再現部の短縮化はみられるが、シューベルトがこの曲でとった方法はまったく異質でとても計画的である。
02月22日 / ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770年12月16日ごろ - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ドイツのボンに生まれる。音楽家として最高の『楽聖』の称号が与えられている。
ベートーヴェンの音楽は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトらが形成した古典派音楽の集大成であり、かつ、中期以降の作品は、ロマン派音楽への扉を開くものとなっている。
交響曲を例に取れば、スケルツォの導入(第2番)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番「英雄」)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5番、第7番)、標題的要素(第6番「田園」)や声楽の導入(第9番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派が尊重する様式美とロマン的な表現主義とをきわめて高い次元で両立させており、ドイツ音楽の理想的象徴的存在として、以後の作曲家のほとんどに影響を与えた。同時に、第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成上の規範となり、のちのロマン派や国民楽派の多くの作品がこれに追随した。
また、ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、その作品は公式・私的行事のBGMや機会音楽として作曲されることが大部分であったが、ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、一般大衆に向けた作品を発表する、自立した音楽家の嚆矢となった。ベートーヴェンが史上初めて音楽家=芸術家であると公言し、音楽の歴史において重要な分岐点となる。
1770年、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンにおいて、宮廷楽士の家に生まれる。幼少から父の強制的な教育を受け、十代のころには、酒浸りの父親に代わって家計を支えていたという。
1778年、ケルンのシュテルンガッセ音楽堂での演奏会に出演する。このとき、年齢を若く偽っていた。
17歳のときに初めてウィーンでモーツァルトに出会う。22歳ではヴィーンで活動を開始、ハイドンに師事する。当初はピアノの即興演奏で名声を高めた。20歳代後半から難聴の症状が始まり、32歳のとき「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる遺書を書く。しかし、このときの絶望から再起し、34歳のときに交響曲第3番「英雄」を発表。その後約10年間は、中期を代表する名作が次々に書かれ、「傑作の森」とよばれる。
「英雄」交響曲については、ベートーヴェンはフランスにおいて破竹の進撃を見せていたナポレオンを念頭に第3交響曲を書き上げたが、ナポレオンが皇帝になったと聞いて『彼もまた、俗物であったか』と激怒したという逸話があり、楽譜の最初のページに書いてあったナポレオンへの献呈の言葉を荒々しく消したペンの跡が現在も確認できる。このように、ベートーヴェンは政治的には自由主義者、共和主義者であり、このことを全く隠さなかったため、19世紀に入って敷かれたメッテルニヒによるウィーン体制のもとでは「反体制分子」と見られ、周囲にはスパイがつけられていたと言われている。1812年、テプリチェにおいてドイツを代表する文豪ゲーテと会い、二人で散歩をしていた際に、オーストリア皇后の一行と遭遇した。ゲーテが脱帽・敬礼をして一行を見送ったのに対してベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切ったというエピソードも残されている。
晩年は、慢性的な腹痛や下痢など徐々に悪化する体調に加え、甥カールをめぐる養育権争いやカールの自殺未遂事件が起こり、私生活では苦悩の日々を送っている。しかし交響曲9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表した前後からの晩年の作品群は、難解かつ崇高な精神性を湛えており、ベートーヴェンが最後に到達した境地の高さを示すものとなっている。
1826年、もはやベートヴェンは病に罹っており、翌年1827年にその波瀾に満ちた生涯を終えた。葬儀にはのべ3万人もの人々が駆けつけ、異例のものとなった。 伝説によれば、ベートーヴェンの臨終の間際、すさまじい雷鳴とともに稲妻が閃いたが、彼は右手の拳を振り上げ厳しい挑戦的な顔をし、遥か高みを数秒間にらみつけた後、その目を永遠に閉じたのだという。そして彼は臨終際、Plaudite, amici, comedia finita est.(諸君、喝采を、喜劇(お芝居)は終わった)と発したとも伝えられている。
ベートーヴェンは20代後半から始まった難聴が次第に悪化し、晩年の約10年ほどはほぼ聞こえない状態にまで陥った。しかしそれでも弦楽四重奏曲を書き続けているので、ベトルジヒ・スメタナのように完全に聞こえなくなったとは考えにくい。また、慢性的な腹痛や下痢は終生ベートーヴェンの悩みの種であった。耳疾については従来、鼓膜から聴神経への音声振動伝達をする骨が硬化する病気=耳硬化症や、神経性難聴、あるいは梅毒など諸説が唱えられ、あるいは幼いときに父親からスパルタ教育によって耳を強くぶたれたことが原因などとも言われてきた。 近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されたことから原因が判明した。ベートーヴェンはワインが好物で、腹痛を紛らわす目的も含めて常飲していたが、当時のワインには鉛を含んだ甘味料が加えられており、この過剰摂取が命取りとなった可能性が高い。鉛中毒は慢性的な腹痛・下痢のほか、まれに難聴を引き起こすことから、耳疾の原因としても有力になっている。
ベートーヴェンの音楽は、古くから古典派からロマン派への橋渡しをしたと言われ、確かに彼の音楽にはロマン的な感情表現の要素も多く含まれてはいるが、それでも彼自体はウィーン古典派に属する最後の巨匠と見るのが一般的である。それは1802年と1818年頃の人生における2度の危機に、当時E.T.A.ホフマンなどの影響で台頭しつつあったロマン派的な美学には興味を示さず、むしろハイドンとモーツァルト、そしてバッハの遺した、ソナタなどの音楽形式や、調性と対位法に集中し、それを最大限に活用する道を選んだからである。ベートーヴェンの芸術では、外面的には限りない熱狂を伴ないつつも、厳格な形式や調和が決定的な役割を演じている。我々が彼に対して持つ「自由奔放なベートーヴェン」という印象に反し、彼より謙虚かつ厳格に法則に従った音楽家はいなかった。これが後のロマン派と異なる所である。
ベートーヴェンは作曲家としてデビューしたての「初期」の頃は、自由な旋律・リズムを持つ作品や、ラテン的な明るさを持つ作品を書いていたが、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあることは否めない。
1802年の1度目の危機とは「遺書」を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。すなわち、ウィーン古典派の2人の先達よりも、更に徹底して形式的・法則的なものを追求した。この後は「中期」と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の深化・拡大に成功した。結局の所交響曲第3番「英雄」やピアノ協奏曲第5番ような巨大な作品においても、交響曲第5番やピアノソナタ第23番のような圧縮された作品においても、対立する2つの調性に基づいた和声の法則と堅固な形式は、ベートーヴェンにとって究極的には侵す事のできないものであり、これの正しい活用によってめざましい成果を得たといえる。
また、晩年の2度目の危機の時、ベートーヴェンは深刻なスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてはあまり省みられなかったバッハの遺産、対位法を徹底的に研究した。対位法は「中期」においても主題操作などで部分的には用いられたが、それを改めて古典派的な強固・壮大な形式に大々的に取り入れる事に完全に成功し、危機を乗り越えた。用いる形式は極端に簡素で無駄の無いものになり、変奏曲形式はここに究められた。これにより、荘厳ミサ曲や晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタなど、精神的に極めて高い境地に達した「後期」の作品が作られた。
もちろんベートーヴェンに主観的な感情を盛り込む能力がなかったわけではない。実際、彼はどのロマン派の巨匠よりも、音に緊張と人間感情を盛り込む事に成功したといえる。彼の作品のもつ極めて厳格な法則的・形式的な要素は、抽象のための法則・形式でなく、つまるところ人間に正しく感知されるための法則・形式であった。彼は客観的な法則・形式の正しい運用こそが、音楽に最大の効果をあたえる事を、作品によって証明したのであった。
ベートーヴェンの実際の容姿については、非常に醜かった、と伝えられている。小太りで身長も低く、どす黒い色の顔は天然痘の痕で酷く荒れていた、と伝えられる。普段の表情に関しては、有名な肖像画の数々や、デスマスクのほかに生前ライフマスクを作っていたこともあり、どのような表情だったかはある程度判明している。ライフマスク製作の際、息が詰まってベートーヴェンが暴れだし、もう一度作り直す羽目になった、というエピソードもある。
また、若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、年を取ってからは一向に構わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。
ベートーヴェンはクリスチャンで、キリスト教的な倫理観に忠実であったが、バッハのような正真正銘の敬虔なクリスチャンとはいえなかった。実際、素朴なクリスチャンだったハイドンからは無神論者と呼ばれた。また、ミサ・ソレムニスの作曲時においてさえも「キリストなどただの磔にされたユダヤ人に過ぎぬ」と発言したとされる。
かわりにベートーヴェンはホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、また、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、その結果として(狭い意味のキリスト教では本来異端とされる)汎神論的な考えを持つに至ったことが、彼の手記などから明らかにされている。こういった思想は、当時のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやフリードリヒ・フォン・シラーなどの教養人にも共通してみられる特徴である。実際、ベートーヴェンが手記などで神と言った時には、キリスト教的な人格神と、汎神論的に遍在する神と2つの意味を同時に持っていることが多い。また、彼は古代ギリシア的な調和の世界を是とし、彼の未完に終わった「第10交響曲」においては、キリスト教的な魔術の世界に、ギリシア的な調和の世界を融合させる事を目標にしていた事が、手記などからわかっている(これはゲーテが「ファウスト」第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。これはベートーヴェン独自のアイデアといえる)。
このような権威にとらわれない自由で自然な彼の宗教観が、ミサ・ソレムニスや第9交響曲に普遍的な感動を与えたといえる。
また、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、過度な感傷性と作為的な感情表現に代表される美学からは距離を置いていた。例えば同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術について、「ベートーヴェンこそ最もロマン的な音楽家だ」などと機会あるごとに褒め称え、ベートーヴェンを自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは彼らの活動をほとんど無視していた。ベートーヴェンが注意したものは、同時代の文学ではあくまでもゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルト、ハイドンなどから最も影響を受けた。
その他にも、フランス革命とその後の保守反動の嵐の時代に生きたベートーヴェンは、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。また、哲学者カントの思想に接近し、実現はしなかったがカントの講義に出席する事も企画していた。当時の天文学についての書物を深く読み込んでいたとも言われている。彼はまともな教育は一切受けていないにも関わらず、当時においてかなりの教養人であった。
第5交響曲の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が『テンペスト』と呼ばれるようになったいきさつなど、ベートーヴェンの楽曲には逸話が多く残っている。これらは、ベートーヴェンの晩年に秘書役を務めたアントン・シントラーの著書に依るところが多い。しかし、ベートーヴェン自身はシントラーのことを信用していなかった節があり、シントラーはベートーヴェンの死後、遺品を勝手に処分するなどしていることから、シントラーの書いた逸話が事実なのか疑わしく、例え事実だとしてもベートーヴェンが本気で語ったことなのか疑問とする見方もある。
ベートーヴェンの死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見された。この恋人がだれであるのかについて、生前結婚話もあったテレーゼ・フォン・ブルンスウィックやその妹ヨゼフィーネなどが候補として考えられていたが、現在ではアントニア・ブレンターノ(当時すでに結婚し4児の母であった)であるという説が有力となっている。
また、「失恋する度に名曲を作る」という因縁が、今日伝えられている。
ベートーヴェンの後の音楽家への影響は甚だ大きい。最もベートーヴェンの影響を受けた音楽家はワーグナーとブラームスである。
ワーグナーはベートーヴェンの交響曲第7番や交響曲第9番などの巨大な作品に触発された。その後ワーグナーはロマン派の急先鋒として、音響効果の増大に成功し、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナーの組に加わらず、あくまでもベートーヴェンと同じ音楽形式や和声法を用いて作曲をし、ロマン派の時代の中で古典派的な作風を保った。このような狭い意味ではブラームスがベートーヴェンの「正統」な後継者といえる。
しかし、ワーグナーの音楽は次第に官能的・威嚇的で大袈裟なものへと発展したのは否めず、ブラームスにしてもベートーヴェンの有機的で厳格な構成に比べると粗雑な面があり普遍的というよりドイツ民族的な芸術であった。2人の巨匠をもってしてもベートーヴェンの衣鉢を完全に受け継ぐ事はできなかった。この事から、「交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲はベートーヴェンで歴史的な頂点を向かえ、後は衰退の道をたどる」とまで断言する専門家もいる。
聾者となりながらも音楽家として最高の成果をあげたベートーヴェンの不屈の精神を称え、彼を英雄視する人々が多く生まれた。ベートーヴェンの音楽は一種の爆発性を持つことから、この考えは甚だ魅力的であり、ロマン派の時代の英雄崇拝と併せて広く広まった。ロマン派が廃れた後も残り、今日まで広く人気を得ている。この代表者にはロマン・ロランがいる。
一方でこの考え方により、聴衆や評論家が、ベートーヴェンの作曲時の恋愛状態・経済状態や、シントラーなどによる作曲の際の逸話などを、ベートーヴェン鑑賞の際に必要以上に重視してしまい、更には客観的な音楽事象より先に立たせたり、ベートーヴェンを文学的に理解しようという傾向を強めた事は否めない。例えば、彼の手紙の中の一句に過ぎない「苦悩を突き抜けて歓喜へ」という言葉や、ミサ・ソレムニスの演奏指示である「Vom Herzen—Mo¨ge es wieder zu Herzen gehen (心より発するものは、願わくば再び心に向かわんことを)」などの言葉は、現在本来の意味を離れ、ベートーヴェンの芸術全ての標題であるかのように扱われている。
一方、客観的な音楽事象としてのベートーヴェンの芸術を我々一般聴衆に伝えるものは、ベートーヴェンを安易に英雄視するものに比べ驚くほど少なく、年々そのような見方は減ってしまっている。しかし、音楽家ワーグナーの著作・講演、指揮者ハンス・フォン・ビューローの講演、音楽理論家ハインリヒ・シェンカーによる分析や、指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの著作など、極めて質の高いものがあり、これらのごく一部には邦訳もある。
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